2017年3月5日日曜日

人間、しかも日本人にほんとうに論理的な思考ができるか?



ただいまつくづく考えてみたところ、私は論理的な考えや行動がたいへん苦手なのである。論理的に考えているつもりでいつのまにか感情が混じっていることが多いし、論理的に考えた結果をもって行動に移す際にもなにがしかのいいわけをして妥協や手加減、躊躇していることがある。そもそも人間がする論理的な思考、行動というものをあまり信じていない。



キリスト教やイスラム教の世界では己を超越した「神」があるので、その「神」に照らし、一切の感情を排して透徹した論理を貫きやすいのかもしれないとは思う。ずっと考えを詰めて詰めて詰めていって、ここから先を考え続けるのは人間にはムリだと思う瞬間もある。



これは私だけでなく、たぶん日本人の特性なのだろう。たとえば何人かで物事を決めなければならないのだけれども意見がわかれ、紛糾した場合、最後には必ずといって、ここはベテランの意見を尊重して、とか、菅原さんがああいっているのだから、とかいうようなセリフが出てくる。なぜ菅原さんかはわからないが。



たとえばそれが議論を尽くしたあとの、ただ皆の気分的なおさまりをつけるためだけの儀礼的な言葉だとしても、徹頭徹尾リクツ、論理だけでは落着しないのである。ときにはせっかく議論してきたものが、そんなふうな存在感の軽重だけでひっくり返されることさえほんとうにある。「蛇足ですが……」、ではじまった発言に結論が落ち着いたり。マジっすか!? である。



「蛇足ですが……」、で最後にひっくり返されたあげくの結論であっても、頑強に一人だけ抵抗して「多数決ですから……」、と押し切られたにしても、そこに出席していたのであればその結論に対する責任はある。であるから会議、討論、話し合いというものはできるだけ遠慮したい。こんなことなので仲間がいない、顔はデカいが広くはないのもムリはない。



こんな議論のしかたをしていたのではいつまで経っても民主主義は育たない。そんなことよりいまにも人工知能の尻に敷かれてしまいそうだ。



そこで遥洋子(年齢不詳。50代半ばの説が有力とされる)である。『日刊スポーツ』(2017年2月21日配信)にこんな話が載っていた。



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【遥洋子の“スポンサーの顔色”発言にスタジオ凍る】

《タレントでコラムニストの遥洋子が、芸能人コメンテーターがスポンサーの顔色をうかがって発言を変えていると指摘し、スタジオを凍りつかせる一幕があった。

21日放送のフジテレビ系「バイキング」は、日本でも1月に公開されたドキュメンタリー映画「太陽の下で -真実の北朝鮮-」を紹介。北朝鮮における理想の家族の日常を記録したドキュメンタリーとしながらも、全て北朝鮮当局によって演出されていたことに気づいたロシア人監督が、その裏側を隠し撮りで明らかにしたものだと説明された。

番組では映画の一部が放送され、主人公の少女らが用意されたシナリオに合わせて演技指導をされるシーンなどに、出演者らは北朝鮮の実態について意見を述べた。

しかし、その中で遥は「私たちはすごく距離をもって(この映画を)見てますよね? 向こうでは必ず権力者を笑顔で仰ぎ見なければいけないということを胸を痛くして見ていますが、じゃあ私たちはどうなんですか? スタジオにスポンサーさんたちがスーツ着てずらっと入ってきたら、私たち発言変わりませんか?」と問い掛けた。

さらに「今のメディアのタレントたたきを見ていると、過去の罪を自白させるくらいの勢いがある。それを思うと、人というのは国にかかわらず自分の日常にある権力にいかに自分の言動が左右されるか」と指摘。バラエティー番組らしからぬコメントに、スタジオ内は静まりかえり、司会の坂上忍は「私にはいまいち理解できなかった」とスルーして場を和ませた。》

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これも「蛇足ですが……」の一種である。“悪の枢軸”北朝鮮を一方的に叩くスタジオの雰囲気に一石を投じようとしたのであろうけれどもズレている。たとえが酷すぎる。国家の指導・教育によるマインドコントロールと契約スポンサーの顔色うかがいとはまったく別物ではないか。



しかもいいたいことは北朝鮮への批判一色への違和感なので、スポンサータブーの話がまた国、権力の話にムリヤリ継ぎ合わされて終わる。こんな酷いたとえしか思いつかないのなら発言は慎んでいただきたいと思うのである。「さくらてりたまバーガー」も草葉の陰で泣いているぞ。



もともと遥洋子という人は勝ち負けで話をしたがる人で、しかも議論になるとどうしても自分が勝ちたいというくーだらない欲望に取り憑かれてしまう人なのである。すでにここから非論理の世界へ飛び出してしまう気マンマンなのである。



で、しかしこれは劣勢だと見るや素晴しく極端な発言で強引に議論を終わらせてしまうクセがある。東大までいって上野千鶴子に学んできたケンカのやり方というのはコレなのであろうか? “ケンカ”といっている段階でアウトだけれども。



最近では子供をもつ母親たちが懸念するマンション内の挨拶問題で防犯に重きを置く“挨拶禁止派”に回り、挨拶の意味や礼儀の大切さを主張する“禁止するのはおかしい派”に対して、挨拶の意味や礼儀の大切さを重視するのはそれぞれの”教育方針”だと一蹴してみせた。しかしここを蹴散らされるとそもそもこの議論自体が成り立たなくなることは誰にもわかる。遙洋子はしばしばこういうムチャクチャを平気でやる。バカなのか?



関西が地元のタレントであるので関西の知り合いに聞いてみたところ、こんな答えが返ってきた。



「はずかしいから東京にいってほしくなかった。でもせっかく出ていったのだから帰ってこないでほしい」



ま、いってみればケツをまくる、ちゃぶ台を返す、というたぐいである。加藤浩次(47)のコントみたいなもの。民主主義は遠く遠く遥かの彼方である。しかし私は遥洋子のケツなど見たくないし夕餉のみそ汁を浴びたくもないのである。ほらほら、やっぱり最後はこうして非論理的ないい回しで終わらないと落ち着かない、結局。(了)



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