昨日の「ジャニーズ探偵局」の記事について、それは村西とおる(68)であるというご指摘をいただいた。ハタと膝を打ったのではなくパチンと額を叩いた。なかには同時に両方をやるヤツもいる。なぜ気がつかなかったのであろう? しかしそんなことをいっている場合ではない。取るものも取りあえずご指摘をいただいたブログ『村西とおる日記』2017年2月11日付に駆けつけてみた。
《〜ジャニー喜多川さま、メリー喜多川さまとの28年戦争の決着をつける時がやってまいりました。
戦いの火ぶたが切られたきっかけは、すぐる28年前、手前どもの専属女優である梶原恭子さまとジャニーズ事務所トップアイドルの田原俊彦さまが金澤公演の夜、ホテルの一室でオ〇ンコをしこたまイタしたことに由来しています。〜》
改めて宣戦布告しているではないか。「本名を公開することや写真撮影は断られた。」と書いた『J-CASTニュース』はなにをトボケておるのか。インタビューしたのなら目の前の人物がAV界の帝王・村西とおるその人だということはわかるであろう。それをなにをシラジラと一般ニュースの体裁で。いま20代の石部金吉ならまったく知っていない可能性もあるがのう。古いのう。
というわけで「ジャニーズ探偵局」=村西とおるであった。監督の『村西とおる日記』はこのあとメリー喜多川、藤島ジュリー景子母娘とのファーストコンタクトに言及している。興味のある方はぜひ『村西とおる日記』でご確認いただきたい。
それから先のなりゆきはかつて村西とおるの元で働き、たしか2、3本で男優も務めた経験ももつライターの本橋信宏(60)が自身のフェイスブック上で以下のように記述している。2016年1月21日付である。
《一九八八年秋、メリー喜多川・ジュリー景子母娘に面罵された村西とおるは、ジャニーズ復讐全面戦争を呼号し、ジャニーズ事務所㊙情報探偵局を開設、ネットも普及していない時代ゆえに電話回線を引いて情報を集めた。
村西とおるみずからジャパネット高田社長のように甲高い声で留守録メッセージに吹き込んだ。
「ハーイ! こちらはジャニーズ事務所㊙情報探偵局です! 探偵局ではいま、ジャニーズ事務所に関するあらゆる情報を集めています。ナイスな情報を教えてくれたきみに、千円から一千万円までの賞金をお贈りいたします。さあ、思い切ってきみだけが知っているジャニーズ事務所に関する情報ぜひ話してください。ブーッという音が鳴ります。そしたらきみの連絡先も忘れずにね。さあ、いいかな・・・・いくよお・・・・レッツゴ-!」》
おお、この村西とおるの留守録メッセージは聞いた記憶がある。たぶんテレビだ。なんだかんだといってもむかしはラフだったのであろう。「ジャニーズ探偵局」の前身、「ジャニーズ事務所㊙情報探偵局」はこうして誕生し、それから28年間、まあジャニーズとの30年戦争がスタートするのである。
「梶原恭子さまとジャニーズ事務所トップアイドルの田原俊彦さま」のことの次第については村西とおる自身の証言がある。
「梶原恭子という新人を撮った時、ぽろっと『私、トシちゃんと金沢公演の時に寝たことあるの』と漏らしたんですね。それで、作品の中でその時のエピソードを語ってもらって、“ありがとう! トシちゃん”って新作を出したんです。当時、深夜番組“11PM”(日本テレビ系)に私はレギュラーで出ていたんで、ディレクターが『面白いですねぇ』と言ってくれて、番組で(同作品を)紹介したのよ。そしたら翌週、そのディレクター2人がクビになっていなくなっちゃった。あの頃、ジャニーズとズブズブだったのは日テレだったから。それで、『クビになったディレクター2人の弔い合戦をしてやろう』と思ったんだよ。それがファイトの始まりだったの」
———— 《「ジャニーズはウンコですね!」――AV監督・村西とおる氏インタビュー》『Change Our World』2016年4月20日配信 ————
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あれー、当時のテレビのジャニーズ規制はキツかったのかラフだったのか、どっちなのかよくわからなくなってしまった。文中「ありがとう! トシちゃん」は、正しくは「ありがとうトシちゃん」。フラットに発音していただきたい。
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『ありがとうトシちゃん』は1988年1月1日にクリスタル映像から発売され、いまでも中古VHSが5000円〜1万5000円程度で流通している。当然DVD化はされていない。梶原恭子はその後SM系にAV女優としての活路を見出し、いまでは女子卓球日本一・平野美宇(16)系列のただのオバサンである。
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それにしても28年前の「ジャニーズ事務所㊙情報探偵局」時代には情報提供賞金が「千円から一千万円」までだったのに、「ジャニーズ探偵局」になってからは百万円なのである。名前と一緒に賞金も圧縮。最近露出が増えてきたようでもあるし、村西とおる、そろそろ苦しくなってきたのではあるまいか、といささか心配である。嫁の乃木真梨子はまだ46歳だし。
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あれれ、いま確認したら卑弥呼(45)と乃木真梨子の顔を入れ違えて覚えていたのである。よかったよかったたいへんな思い違いを抱えたまま死ぬところであった。
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突然だけれども仕事で知り合った男にかつて村西とおるのアシスタントだったヤツがいる。村西とおるが大々的に裏本を売って逮捕、保釈された直後、1985年のことらしい。撮影アシスタントといっても何でも屋で、その何でものなかには男優も入っているという「クラクラするお仕事」である。
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実際に彼が大切に保管していた処女作にして引退作、『レディス・イン・コペンハーゲン』も見せてもらった。ここは気の利いた感想のひとつも述べるところなのであろう、と気合いを入れて見たのであるけれども、あれまびっくらこいた(by高田純次)。カラミのシーンがないのである。せっかくデンマークまで行き、スウェーデン行きフェリーにおいていきぼりにされたりもしたというのにカラんでいない。
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わずかな登場シーンのなか、知り合いはベッドの端に並んで腰掛けている女優をこっそりと指差し、カメラ目線で、しきりに口だけを“いいの? いいの? ”と動かしていたのである。弱いヤツ。で、そこからまた画面はコペンハーゲン観光になる。それだけならまだしもビデオの冒頭からここにたどり着くまで、どこかのスタジアムでの観兵式というのか、軍隊の行進のようすが延々と約30分も続いたうえでの話である。
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はじめ見たときはエロと軍隊かあ、と意味を期待したのだけれども、意味などどこにもない。ただただカメラを珍しがっている非接触部族の態である。知り合いの男に
「結局あそこは絡まなかったの?」
と聞くと「うん」と答え
「あとで別なヤツが擬似で」
という説明があった。つまらねえ。
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繰り返すけれども、私は確かにこの『レディス・イン・コペンハーゲン』を観賞させていただいたのである。しかし知り合いの男はもちろん、誰のなんのカラミのシーンも記憶にない。途中で放り出したのか眠ってしまったのかしたのであろう。うむ。アダルトビデオ黎明期のあまりにもナマナマしくない証言ではないか。
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村西とおるの快進撃はその1985年の暮れからスタートする。ドキュメントふう中心の仕事ぶりは強烈にラフでタフだったらしい。弱い知り合いはそれで振り落とされてしもうた、と。
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「レディス・イン・コペンハーゲン」撮影当時、そんなムダ遣いをしつつ、村西とおるはどんなようすだったのか? と面白半分に聞くと、素敵なお答えが返ってきた。
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「飛行機のなかでは往きも還りもずっとシナリオを書くマネをしていた」
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こっそり手元を覗き見るとシナリオの体裁すらないただの殴り書きであったのだそうだ。しかしその原稿用紙が日本到着時には「たっぷりひと掴み」の厚さになっていたというから、やはり並大抵の膂力の持ち主ではない。ドキュメントっぽい作風に転換したのも当然のなりゆきであろう。
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さて、たいへん唐突ではございますが、今日は仕事をしているマネはこれにてお終い。(了)
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